「愛」とは

『愛』とは。

愛とは何か。

これは長年にわたる大いなる疑問です。英語では、この単語は非常に誤解され、意味が薄まり、誤解されてきました。私たちの多くがもはや愛を過度にロマンチックに理想化されたもの以上の何ものでもないと信じなくなったのも不思議ではありません。何かを受け入れるためには、ある程度それについて理解し、意味を通すことができなければなりません。私は、愛には強力で効果的な定義があると信じています。それは私たちが愛を見つけ、癒しの道を進むのを助けるものです。Scott Peck医師が『The Road Less Traveled』(日本語版:愛すること、生きること)で 素晴らしく提唱したように、愛とは「自己または他者の精神的成長を育む目的で自己を拡張する意志」を指します。

こちらの記事で、「スピリチュアリティ」と「スピリチュアルな成長」について書いています。愛はスピリチュアリティの原動力でもあります。ですから、愛はただ偶然に起こるものではなく、努力と犠牲が必要です。

「自分自身を愛することができなければ、他人を愛することはできない。それはまさに、自分自身が自己規律を持っていなければ、子供たちに自己規律を教えることができないのと同じである。実際、他人のために自分自身のスピリチュアルな成長を放棄することは不可能なのだ。」

では、ロマンチックな愛という神話はどうでしょうか?私たちのために誰かが存在するという考え。私はこれが嘘だと思います、恐ろしい嘘です。良い意図で行われた嘘ではありますが、それは私たちを迷走させ、愛が要求する明確さを教えず、混乱と失敗した関係に導きます。

恋と愛は違う

考えてみてください。私たちが単に誰かに夢中になるという考えは、意識的あるいは無意識的な感情、性的な動機付け以上の何ものでもありません。進化論的な視点からすると、これは種の繁殖にとって非常に意味のあることでした。しかし、これは愛ではありません。意志の行動でもありません。しかし、誰かを愛する、ということはそういうことなのです。誰かを愛するためには努力が必要で、選択が必要で、規律が必要です。変に聞こえるかもしれませんが、愛することは愛することです。したがって、私たちは自分自身を無条件に愛することができるまで、本当に誰かを愛することはできないのです。

愛の本質

愛はただ自然に起こるものではありません。愛は選択です。多くの場合、私たちが誰かに夢中になって、感情的な熱が落ち着き始める頃に愛は始まります。この時、初めて私たちが本当に相手を愛するか愛さないかを決めることができます。同じように、私たちの子供が生まれたとき、彼らを愛するという選択をすることができます。これは、さらに深く掘り下げていくとより理解できるかと思います。

愛と依存

私たちはよく誰かが私たちを救ってくれる、例えば”白馬に乗った王子様”を夢見たり、人生の運命のパートナーを見つけることを夢見ます。しかし、私たちが相手に依存するような関係を持った時、それが感情的な安定性、力、または支えであろうと、私たちは愛しているのではなく、彼らに依存していて、それは寄生なのです。生き延びるために他の人を必要とするとき、あなたは彼らの寄生虫なのです。考えてみてください。二人の人間が互いに愛し合うことができるのは、お互いがいなくても生きていけるだけの能力を持ちつつ、一緒に生きることを自発的に選択したときだけです。

もちろん、側にいてくれる人や支えてくれる人を求めるのは完全に健康的で自然なことです。しかし、私たちはその欲望に支配されたり、それが愛だと誤解してしまうことは避けなければいけません。

 

真の愛

それでは、どのようにして真の愛を見つけるのでしょうか?

唯一の方法は、

まず自分自身を愛に値する規律ある人間に育て上げるという、スピリチュアルな過程を踏むことです。つまり、最初に自分自身に対する無条件の愛を見つける必要があります。

この過程で、私たちは一時的な快楽を求めるのではなく、自分の人生と選択に責任を持ち、真実に自分を捧げ、そしてそのプロセス全体を通じてバランスを見つけて保つという、自己規律であり自制心を身につけることができます。従って、愛と自制心は一体となって存在しているのです。

「愛とはただ与えるだけではない;それは慎重な与えと慎重な保留の両方である。そして、それは慎重な称賛と慎重な批判だ。愛は慎重な議論、闘争、対立、煽り、押し、引きだけでなく、慰めでもある。それはリーダーシップだ。“慎重”という言葉は、判断力を要するという意味で、判断力は直感だけでは足りない;それは思慮深く、しばしば痛みを伴う決断を必要とする。」*

私たちが行う全てのことは、自分で選んで行うからするものです。そして、私たちは最も満足できる選択をします。マインドフルでない状態や、エネルギーの節約や怠情を克服しない限り、私たちは愛することはできません。

怠けは愛の正反対

興味深いことに、怠惰は愛の反対です。愛には労働、犠牲、そして何も見返りを期待せずに与えることが含まれています。愛するという行為は、最も難しく、しかし最も報われ、心が満たされる経験の一つです。愛は努力を必要としますが、それは私たち全てが必要とし、日々求めているものです。愛は私たちを人とする大切な要素の一つです。そして、誰もが本心から愛するという経験から学ぶことは、他人を深く愛することの持つ根源的な喜びです。私たちは愛することを望むから愛します。愛は私たちにとって必要なのです。そして何よりも、真の愛は自己をより充実させます。そして愛は自己を拡大してくれます。愛はエネルギーを必要としますが、実際には私たちを枯渇させるのではなく、更なるエネルギーで私たちを満たしてくれるのです。だからこそ、愛は同時に自己中心的でもあり、無私的でもあるのです。それは他者と自分自身への、最も純粋で癒しをもたらす贈り物の一つです。

愛とカテクト

踏まえておきたいのは、私たちは他の人間だけを愛することができるということです。私たちが誰かを愛するとき、私たちは「カテクト」する、つまり何かを私たちにとって重要なものにする過程に没頭します。私たちは日々の生活の中で、何でも「カテクト」することができます。スポーツ、ペット、車など。しかし、この定義に基づくと、スピリチュアルな成長が可能なのは人間だけです。だから、私たちが真に愛することができるのは人間だけなのです。

さらに、ただ何かを私たち自身にとって重要なものにするだけでは愛ではありません。なぜなら、真の愛はカテクトという問題を超えたものだからです。愛するとき、それはコントロールの保証無しに、感情に左右されることなく行われるものであり、選択です。聞く、聴くという選択。ただ自分自身や相手のスピリチュアルな成長を支えてあげることだけを思って、条件なしに誰かの側にいること。愛は無条件的であると同時に、与える人と受け取る人の両方が受け取るユニークな過程です。

「真の聴き方、つまり他者に完全に集中することは、常に愛の表現である。真の聴き方の本質的な部分は、一時的に自分自身の偏見、参照枠、欲望を放棄または置き換えるという、ブラケティングと呼ばれる規律だ。これにより、可能な限り話し手の世界を内側から経験し、彼らの立場に立つことができる。この話し手と聴き手の一体化は実際には自己の拡大と延長であり、新たな知識を常に得ることができる。さらに、真の聴き方には、自己を一時的に後回しにすることを意味するブラケティングが含まれ、他者を一時的に完全に受け入れることも含まれる。」*

このポイントを理解しなければならない理由は、「ロマンチックな愛」自体は努力をせずとも、自然に起こるからです。感情が薄れ去ったとき、初めて愛の務めが始まることを理解することが重要です。努力がいらないものから努力が必要なものへの変化から生まれる挑戦により、カップルはしばしば真の愛と聞くことに必要な努力と自制心を築くことを躊躇し、不本意に感じることが多くあります。そのため、愛は常に勇気とリスクを伴うのです。

私たちは自分に重要な人しか愛することができません。しかし、全てのカテクシスには、失うことや拒否されるリスクが常に存在します。そのため、カテクシスには痛みという代償が付きまとうのです。もし愛のある人生を受け入れると決めたなら、それが挑戦と自分との戦いで満ちた人生になることを覚悟することです。私としては、完全な人生を生きないことやまったく生きないことよりもはるかに良い選択だと思います。

愛することのリスク

人生を生きること自体がリスクを伴い、私たちが人生をより愛情深く生きるほど、私たちはより多くのリスクを負うことになります。私たちがリスクから逃げ、自由を放棄することはできますが、強力な真実があります。その真実とは、人生での唯一の真の安全性は、人生の不安定さを楽しむことにあるということです。したがって、最高の愛は必然的に完全に自由な選択であり、単なる従順な行為ではありません。

では、愛の関係を成り立たせるためにどのようにして他人の成長を促し、支えてあげることができるのでしょうか?それはその人に対する深い愛への誓いを通じて実現します。それは勇気と脆弱性、そして慎重な力の使い方と謙虚さを必要とします。しばしば、他人の成長を支えるためには、難しい話題を議論しなければならないので、まず行動を起こす前に深く考えることが必要です。

 

真実の愛の形

「このジレンマは、愛する者が自身の「知恵」の価値やリーダーシップを取る必要性の背後にある動機を厳しく検証する、骨の折れる自己省察によってのみ解決される。「私は本当に物事を明確に見ているのか、それとも不明確な前提に基づいて行動しているのか? 私は本当に愛する人を理解しているのか? 愛する人が進んでいる道が賢明であり、それを不明確と見る私の視点が私自身の視野の狭さによるものではないか? 私は愛する人が方向転換を必要とすると信じることで自分勝手になっていルのではないか?」これらは真に愛する者が絶えず問い続けるべき問いだ。できる限り客観的なこの自己省察が、謙虚さまたは柔和さの本質である。14世紀の英国の無名の僧侶であり精神教師の言葉で「柔和さとは、自分が本当にどういう存在であるかを正確に知り、感じることそのものだ。自分が本当にどういう存在であるかを真に見て、感じる人は、確かに柔和な存在になるでしょう。」とある。」

私が信じる真の愛は、私たち全員が求めて必要とするものであり、それは自制心が必要で、大きな努力、勇気、そして脆弱性を伴います。愛は計り知れない唯一の相互的な贈り物であり、全ての努力に値します。真の愛は他者の個性を尊重するだけでなく、それを育てようとします、たとえそれが別れや喪失のリスクを伴うものであっても。そしてこれらの全ては、まず自分自身を無条件に愛することから始まります。

今回も最後まで記事を読んでいただき、ありがとうございます。この内容を通して何か明瞭さを見つけることができましたように。もしより深く探求されたい際は、ペック医師の、(日本語版:愛すること、生きること『愛と心理療法』)を強く推薦します。

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WRITER KIE ・WRITER KIE・WRITER KIE・

千葉県出身。健康オタクで19歳年上の夫を持つ25歳。高校不登校の中一つのブログに出会ったのがきっかけで飛び出したアメリカ生活。いろんな刺激や現実を目にして結局たどり着いた、やっぱり日本が好き、の価値観。
自分で誇れることといえば、5年前にダメダメ元トライで取得したTOEIC920点。(3年で失効するからノーカウントな現実)

ノマド / バイオハッカー / すっぴん系女子

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